林邑碑文は実在したか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:40 UTC 版)
中国の正史など漢文史料は林邑文字を胡字、夷字または崑崙書と呼び、605年以前の林邑においてすでにインド系文字(おそらくはインド東海岸カリンガ(Kalinga)地方のパッラヴァ・グランタ文字)が使用されていたことは確実である。チャム語は今もインドをクリン/Kling>Kalingaと呼ぶ。しかし、シャカ紀元による紀年が明記された碑文には林邑期(605年以前)のものはない。林邑碑文とされ、また最古のチャム語碑文とされるドンイエンチャウ(東安洲)碑文は、その次に古いチャム語碑文(7世紀なかば)より400年も早いことになるが、セデスが何を根拠にそれを3世紀ごろの碑刻と考証したかは不明である。一方、インドシナ最古のパッラヴァ・グランタ文字によるサンスクリット碑文であり、シュリーマーラ/Sri Maraという王に言及するカインホア省(慶和省)出土のヴォーカイン(武競/Võ Cạnh)碑文は、当該地域における漢帝国や林邑による支配の痕跡がなく、ルイ・フィノー(Louis Finot)によって扶南の属国のものであることが示唆され、その後セデスにより著書『The Indianized states of Southeast Asia』(原著は仏語、英訳は1975年, p.40)において扶南碑文とされた。
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