条約によるロンドン獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「条約によるロンドン獲得」の解説
1016年10月18日、デーン人が船に向かい退却する際にエドマンド軍と交戦し、エセックス南東のアシンドン(英語版)、または同北西のアシュドン(英語版)にて展開されたアッサンダンの戦い(英語版)という結果につながった。続くその戦闘にて、イングランド側に戻っていたエアドリックは、おそらくその策略から軍を撤退させ、イングランドに決定的敗北をもたらした。エドマンドは西に逃れ、クヌートはグロスタシャーまで追走したが、エドマンドはウェールズ人の一部と同盟を結んでいたため、ディーンの森(英語版)付近で別の戦闘があったとされる。 クヌートとエドマンドはディアハースト(英語版)近くの島で和平交渉のための会合を開いた。テムズ川より北側のイングランドはデンマーク王子の領地とし、南側はロンドンとともにイングランド王の領地とすることで合意された。全領域の統治権は、エドマンドの死後、クヌートに引き継がれることになっていた。エドマンドはこの合意から数週間以内の11月30日に死亡した。エドマンドは殺害されたと主張する史料もあるが、その死亡時の状況は不明である。西サクソン人はクヌートを全イングランドの王として受け入れ、彼は1017年のロンドンにて、カンタベリー大主教のリーフィング(英語版)によって戴冠された。
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