朱履龢
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朱 履龢 | |
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『最新支那要人伝』1941年
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プロフィール | |
出生: | 1877年(光緒3年)[1][2][注 1] |
死去: | 1945年(民国34年)4月13日[1][2]![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 官僚・司法官・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 朱 履龢 |
簡体字: | 朱 履龢 |
拼音: | Zhū Lǚhé |
ラテン字: | Chu Lü-ho |
和名表記: | しゅ りわ |
発音転記: | ジュー リューホー |
朱 履龢(しゅ りわ)は中華民国の官僚・司法官・政治家。 字は笑山[1][2][3][4]。「朱履和」[5] と表記される例もある。蔣介石国民政府において法務官僚として台頭し、後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要人となった。
事績
イギリス留学経験を持つ。北京政府における朱履龢の官歴は目立つものではなく、1912年(民国元年)8月16日から翌年6月3日までの司法部参事[6]、あるいは法権討論会と関税特別会議における秘書(事務方)ぐらいしか見当たらない[1][2]。
1927年(民国16年)6月6日、蔣介石国民政府で外交部総務司司長に任命され、朱履龢はようやく要職を歴任し始める。10月20日、同部第二司司長に異動した[1][2]。翌1928年(民国17年)2月29日、司法部秘書長となり、3月9日、司法部次長に昇格している(11月27日、同部政務次長となる)。1930年(民国19年)4月14日、魏道明の後任として司法行政部長代理に就任し、同年12月16日、立法院立法委員も兼任した。1931年(民国20年)12月30日、羅文幹が司法行政部長に就任したため、朱は政務次長に戻り、翌1932年(民国21年)1月12日、政務次長からも辞職した[6]。その後の数年間は下野していたとされる[3]。
梁鴻志らの華中における親日政権樹立活動に、朱履龢も参与していたと見られる。1938年(民国27年)8月12日、中華民国維新政府の司法行政部(部長:胡礽泰)次長に朱は任命された[7]。翌1939年(民国28年)5月27日、新設された最高法院院長に特任されている[8]。1940年(民国29年)1月4日、司法行政部長・胡礽泰が辞任したため、朱が後任の部長署理に就任した[9]。
1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、朱履龢は司法院副院長と中央政治委員会列席委員に任命された[10][注 2]。同年4月6日、中央公務員懲戒委員会委員長を兼任している[2]。
1945年(民国34年)4月13日、南京市で死去[1][2]。享年69。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 徐主編(2007)、363頁。
- ^ a b c d e f g h i 鄭記事。
- ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、69頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1270頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、634-635頁など。
- ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:朱履龢」
- ^ 維新政府令、民国27年8月12日(『政府公報』第20号、民国29年8月29日、維新政府行政院印鋳局、命令1頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年5月27日(『政府公報』第58号、民国28年6月12日、維新政府行政院印鋳局、命令2-3頁)、
- ^ 維新政府令、民国29年1月4日(『政府公報』第89号、民国29年1月15日、維新政府行政院印鋳局、命令1-2頁)。
- ^ 『時事年鑑 昭和十六年』、時事通信社、1940年、716頁。
参考文献
- 鄭仁佳「朱履龢小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
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