未知の憲章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:20 UTC 版)
1204年、ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年、ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、同年7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教(John de Gray)は彼らに対話で解決するよう働きかけたが同年10月18日に死んだ。貴族側は、さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties)の写しを要求の出発点とした。「未知の憲章(The Unknown Charter)」が作成され、年内から交渉に用いられた。この12項目からなる「未知の憲章」は、19世紀末にジョン・ホラース・ラウンド(J. Horace Round)により再発見され、現在大英図書館に所蔵されている。貴族らは雑多ながらも具体的な要求を掲げた。デュー・プロセスの保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、ヘンリー2世の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。曰く、“ いかなる人も御料林に関して生命を奪われてはならないし、手足を切断されてはならない。”
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