木地技術の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:25 UTC 版)
1918年と1919年に宮城県の助成で木地講習会が開催され、稲子地区に木地の技法が伝承された。これは現在でいう「村おこし」に似たイベントで、同様の講習会は同時期に七ケ宿街道の滑津や、県内の遠刈田、弥治郎や大和町の嘉太神などでも開催された。多くの人々が講習会を受講したものの、業として成り立つに至った者は極めて少なかった。稲子地区での講習会では遠刈田の名工の佐藤松之進を招いて、12名がこけしや玩具といった木製民芸品の制作を学んだが、木地挽きを継続したのは大葉亀之進(1904-1999年)だけであった。大葉亀之進は稲子の区長を長年務め、90歳を超えてもこけしを作り続けた。 詳細は「大葉亀之進」を参照
※この「木地技術の伝承」の解説は、「稲子 (宮城県)」の解説の一部です。
「木地技術の伝承」を含む「稲子 (宮城県)」の記事については、「稲子 (宮城県)」の概要を参照ください。
木地技術の伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 20:09 UTC 版)
1918年と1919年に、宮城県の助成により稲子地区で木地講習会が開催され、木地の技法が伝承された。これは現在でいう「村おこし」に似たイベントで、同様の講習会は同時期に七ケ宿街道の滑津や、県内の遠刈田、弥治郎や大和町の嘉太神などでも開催された。稲子地区での講習会では遠刈田の名工の佐藤松之進(1875-1942年)を招いて、12名がこけしや玩具といった木製民芸品の制作を学んだが、業として成り立つに至った者は極めて少なかった。講習会ののちも木地挽きを継続したのは大葉亀之進だけであった。その亀之進でさえ、林業の傍ら断続的に木地挽きを行う程度で、当初はお盆や器などの食器も制作していたが、やがてこけし専業となった。佐藤豊七郎という人物も亀之進と一緒に講習会を受講したとされるが、佐藤豊七郎作として残された「こけし」は、面相など筆法が亀之進と同一であり亀之進の代筆の可能性が高いとされている。
※この「木地技術の伝承」の解説は、「大葉亀之進」の解説の一部です。
「木地技術の伝承」を含む「大葉亀之進」の記事については、「大葉亀之進」の概要を参照ください。
- 木地技術の伝承のページへのリンク