木俣秋水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 09:19 UTC 版)
木俣 秋水 きまた しゅうすい | |
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生年月日 | 1912年4月3日 |
出生地 |
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没年月日 | 1991年4月26日(79歳没) |
死没地 | 京都府京都市 |
出身校 | 嵯峨高等小学校 |
前職 | 京都日日新聞論説委員 |
所属政党 | 自民党 |
称号 |
藍綬褒章(1972年) 勲三等瑞宝章(1982年)[1] |
子女 | 木俣正剛 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1951年 - 1991年 |
木俣 秋水(きまた しゅうすい、1912年(明治45年)4月3日 - 1991年(平成3年)4月26日[2])は、日本のジャーナリスト、政治家。京都日日新聞(のち京都新聞)論説委員、京都市会議員。
人物・来歴
京都府出身。嵯峨高等小学校卒業。1942年京都日日新聞(のち京都新聞)記者となり、1945年論説委員。1951年京都市議に当選、連続10期務め[2]、1968年から翌年まで議長、自民党京都府連幹事長も担う。当時京都府議だった野中広務とともに、蜷川虎三の革新府政に対峙[4]。また中曽根派に属した木俣は、のちに衆議院議長となる伊吹文明を大蔵省から衆議院京都1区に呼び戻し、後ろ盾となった[4]。
健康上の理由で、1991年春の統一地方選には出馬しなかった。任期は4月29日までであったが、阪急烏丸駅で転落して電車にひかれ、脳挫傷のため、京都市内の病院で死去。79歳没[2]。
著書
- 『勤皇京洛の賦』立命館出版部、1944年。
- 『腐爛日本への直言』青年建設社、1946年11月。
- 『京都府市會と警察を斬る』共同圖書出版社、1949年。
- 『京洛維新風雲史』白川書院、1969年。
- 『外史吉田松陰』白川書院、1970年。
- 『日本はどうなる』日本図書出版センター、1977年2月。
- 『西郷隆盛は死せず 西郷南洲遺訓解説 敬の巻』大和書房、1977年8月。
- 『西郷隆盛は死せず 新日本政記 天の巻』大和書房、1979年2月。
- 『吉田松陰をめぐる女性たち』大和書房、1980年5月。
- 『西郷隆盛は死せず 知られざる西郷追放劇 愛の巻』大和書房、1981年5月。
脚注
参考文献
- 日外アソシエーツ 編『現代日本人名録』日外アソシエーツ、1987年11月。ISBN 978-4-8169-0739-5。
- 木俣正剛『文春の流儀』中央公論新社、2021年3月。ISBN 978-4120054105。
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