朝日家について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 04:58 UTC 版)
尾張藩の藩士の系図をまとめた「士林泝洄」によると、先祖は甲斐武田家に仕えた「古田重虎」という足軽とのことで、その子の右衛門の時に武功として「朝日」姓を拝領したのが始まりとある。この朝日右衛門が、武田家滅亡後は平岩親吉に知行30石で仕えることとなるが、軍功により加増を重ね、100石取りとなる。子に朝日惣兵衛重政、孫が重章の父である朝日定右衛門重村である。 兄に伝蔵、三太郎がいたが、いずれも早世したため、三男の重章が後継ぎとなった。重章の子は全て女子(長女おこん、次女あぐり)であったため、親族の古田家から養子を迎え「朝日善右衛門」と名乗らせたが、病弱で出仕できず、屋敷や知行を返上。善右衛門も享保11年8月に病死、朝日家は断絶となった。
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