朝日姫との離縁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 03:51 UTC 版)
享保18年(1733年)に尾張藩士天野信景によって著された随筆「塩尻」によれば、天正13年(1585年)に朝日姫を徳川家康に嫁がせるため、秀吉から5万石の加増を条件に離縁を迫られ、加増を断って出家して愛知郡烏森村に隠棲したという。一方延宝元年(1673年)に山鹿素行によって著された歴史書「武家事紀」は、天正10年(1582年)の多伊城失陥によって秀吉の不興を買ったことが離縁の原因としている。 なお朝日姫の前夫の名を佐治日向守とする説は軍記「三河後風土記」によるもので、それによれば佐治は天正13年の離縁の際に自らの境遇を恥じて切腹したとされる。
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