最後の山行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 06:01 UTC 版)
1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、三田幸夫(2人とも後に日本山岳会会長に就任する)らとスキー登山を敢行した。立山温泉から、室堂を越えて登頂を目指すが、天候が悪化し断念した。帰路(1月17日)、一帯が猛吹雪となり槇、三田は立山温泉へたどり着けたものの、板倉は立山カルデラの縁にあたる松尾峠付近で低体温症により遭難死した。冬季の立山は、前年に雄山に初登頂が記録されたばかりで知見が不足していたこと、また板倉らが先進の登山用具であるスキーを使用したことで、案内人らとの移動速度に差がついてしまい、別行動となったことも遭難の原因の一つと考えられている。板倉が遭難した翌々月の3月10日、立山・黒部横断行を目指していた伊藤孝一が、松尾峠の板倉が遭難した跡地を訪れて弔っていることから、板倉の遺体は遭難後、雪山から速やかに回収されたものと考えられる。
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