暴露後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 18:37 UTC 版)
新聞でこのことを暴露した当日、3名の東京派取締役は臨時株主総会により結局解任された。それに代わり地元派から3名の取締役を選出、そして検査役を設置しそれに藤田栄一元社長含む地元派3名を選出した。東京派は更にそれに対抗して千葉地裁で解任を無効にするための訴訟を起こす。1917年(大正6年)2月26日、原告である東京派が第一審判決で勝訴すると、地元派による現取締役3名を業務執行停止仮処分を千葉地裁に申請。これも同年7月19日に認められ、この後に予定していた臨時株主総会の招集は取り消された。 この判決以降も株金払い込みをめぐって両者間の対立は悪化した。同年8月27日、3名の地元派取締役が辞任。8月28日に新たな3名の地元派取締役が就任。しかしその中の一人である中田蔵之助は就任後に暴露の事実を知り立場を逆転させたため、藤田栄一ら地元派と対立するようになった。これを受けて藤田栄一らは新取締役を排斥するとともに更に新たな取締役を構成し、東京派との和解を目指した。
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