明長寺の所有となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 01:13 UTC 版)
「葵梶葉文染分辻が花染小袖」の記事における「明長寺の所有となる」の解説
元禄15年(1702年)、荻田民部と荻田久米之助は赦免され、松江の地を去った。松江を去った荻田民部と荻田久米之助は、母を頼って武蔵国大師河原村にやって来た。なぜ荻田民部と荻田久米之助の母が大師河原村に住んでいたのかというと、荻田家の馬喰の出身地が大師河原村であり、そのつてを頼ったものと伝えられている。 久米之助の子孫は大師河原村で暮らし、やがて農業を営むようになった。久米之助の孫と伝えられる荻田幸之助は、延享5年(1748年)5月、大師河原村の名主、池上幸豊と相談の上、これまで持っていた葵梶葉文染分辻が花染小袖を明長寺に預けることにした。明長寺は延享5年に葵梶葉文染分辻が花染小袖を預かった際に交わした証文を所有していたが、昭和8年(1933年)に盗難に遭い、写ししか残されていない。なお明長寺に預けることになった理由は、名主池上幸豊が明長寺の信徒総代を務めていたからであると言われている。 また新編武蔵風土記稿によれば、荻田長繁の末裔である百姓五百次郎は、大坂の陣に際して長繁が拝領した家康の肌着を持っていたが、家は貧しくてわずかの田畑を耕し、野菜を作って市場に売るなどして生活しており、このような卑しい家が家康の肌着を持ち続けることをはばかり、延享5年に大師河原村の明長寺に預けることになったと説明した上で、葵梶葉文染分辻が花染小袖の形状について詳しく紹介している。 明長寺に預けた後、川崎大師に将軍が参詣した際、大師河原の荻田家は将軍に葵梶葉文染分辻が花染小袖を見せたと伝えられている。荻田家は将軍から仕官の沙汰があるのではと期待していたが、葵梶葉文染分辻が花染小袖の由緒を聞いた将軍はひとこと、「大切にせよ」と語っただけであったという。
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