昆陽の大敗
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地皇4年(23年)3月、漢軍の劉秀・王常らが潁川郡に進攻し、昆陽・郾・定陵の各県を攻略すると、王邑は王莽の命により洛陽に派遣され、先行して派遣されていた王尋と合流した。 王邑と王尋は各郡の部隊から100万の兵力を動員しようとし、これを「虎牙五威兵」と称した。実際に招集できた軍勢は42万だったものの、十分な大軍を組織している。また、遠征軍に関する封爵授与や軍政の決定権を掌握した王邑は、63流派の兵法家を軍官として招聘し、多数の猛獣と宝物を携帯して、その威風を示した。 同年5月、王邑と王尋は洛陽から潁川に到着した。この時、宛(南陽郡。荊州の中心地)は劉縯(劉秀の兄)の軍に包囲されていたが、王邑・王尋は先に昆陽の漢軍を制圧しようと目論んだ。王邑・王尋の軍に合流した納言将軍荘尤(厳尤)は、劉縯の討伐こそが重要であるため、直ちに宛へ向かうべきであると進言したが、王邑・王尋は聞き入れず、昆陽を包囲した。王邑・王尋は、昆陽城を守備していた王鳳の降伏を赦さず、荘尤の諫言を無視して包囲を強めたため、窮鼠の王鳳らは必死で抵抗する。 昆陽攻略に梃子摺っている間に、宛は劉縯により陥落し、さらに6月、昆陽城内から脱出した劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻ってきた。王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかる。しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破され、王尋は戦死した。そこへ城内の漢軍も劉秀軍に呼応して出撃したため、挟撃された新軍は大混乱に陥り、王邑は指揮を放棄して逃走した。また、折からの強風豪雨に巻き込まれて、新軍は完全に崩壊・散乱し、王邑はわずか数千の兵で洛陽へたどり着いている(昆陽の戦い)。
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