昆陽の大敗とは? わかりやすく解説

昆陽の大敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:48 UTC 版)

王邑」の記事における「昆陽の大敗」の解説

地皇4年23年3月、漢軍の劉秀王常らが潁川郡進攻し、昆陽・郾・定陵各県攻略すると、王邑王莽の命により洛陽派遣され先行して派遣されていた王尋合流した王邑王尋は各郡の部隊から100万兵力動員しようとし、これを「虎牙五威兵」と称した実際に招集できた軍勢42だったものの、十分な大軍組織している。また、遠征軍に関する封爵授与軍政決定権掌握した王邑は、63流派兵法家軍官として招聘し、多数猛獣宝物携帯して、その威風示した同年5月王邑王尋洛陽から潁川到着した。この時、宛(南陽郡荊州中心地)は劉縯劉秀の兄)の軍に包囲されていたが、王邑王尋先に昆陽の漢軍を制圧しようと目論んだ王邑王尋の軍に合流した納言将軍荘尤厳尤)は、劉縯討伐こそが重要であるため、直ちに宛へ向かうべきであると進言したが、王邑王尋聞き入れず昆陽包囲した王邑王尋は、昆陽城を守備していた王鳳降伏を赦さず、荘尤諫言無視して包囲強めたため、窮鼠王鳳らは必死抵抗する昆陽攻略梃子摺っている間に、宛は劉縯により陥落し、さらに6月昆陽城内から脱出した劉秀数千援軍引き連れて昆陽戻ってきた。王邑王尋はこれを甘く見て、自ら1万余りの軍を率いると、味方軍勢軽挙妄動禁じた上で単独劉秀軍に挑みかかる。しかし劉秀果敢な戦いぶり前に王邑王尋の軍は撃破され、王尋戦死した。そこへ城内の漢軍も劉秀軍に呼応して出撃したため挟撃され新軍大混乱に陥り、王邑指揮放棄して逃走したまた、折から強風豪雨巻き込まれて、新軍は完全に崩壊散乱し王邑はわずか数千の兵で洛陽へたどり着いている(昆陽の戦い)。

※この「昆陽の大敗」の解説は、「王邑」の解説の一部です。
「昆陽の大敗」を含む「王邑」の記事については、「王邑」の概要を参照ください。

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