早期選挙画策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 13:49 UTC 版)
「1960年大韓民国大統領選挙」の記事における「早期選挙画策」の解説
まず、自由党は有力野党である民主党を封じるために早期選挙を計画した。民主党は新派と旧派の派閥争いの末に、大統領候補に旧派の趙炳玉を、副大統領候補には現職副大統領である張勉を指名した。しかし、趙炳玉が病気のため1960年1月に渡米した時を狙って、李承晩政権はそれまで慣習的に5月に実施されていた大統領選挙を2ヶ月も早めて3月15日を投票日とすることを決定した。これに対して民主党は3月選挙は選挙慣例に反している上に、趙炳玉候補が病気治療中であるにもかかわらず選挙を早めるのは、フェアプレーの精神に反している旨の公開質問状を李承晩大統領に提出して回答を求めたが、3月選挙方針を変えることは出来ないとして強硬姿勢を貫いた。そんな最中、民主党の趙炳玉候補は、アメリカで手術を受けた後、2月15日に急逝してしまったことで、大統領選挙は李承晩の当選が事実上確定した。そのため自由党は、副大統領候補の李起鵬を当選させることが最重要課題となった。 大統領候補を失った民主党は、大統領候補が一名のみの場合は、その得票数が全有権者数の三分の一以上でなければならない選挙法の規定を逆手にとって、李承晩の得票数を三分の一未満に抑えることで、再選挙に持ち込み、張勉を大統領候補として再選挙に持ち込む戦術を展開した。
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