日本茶貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:28 UTC 版)
嘉永6年(1853年)に通詞・品川藤十郎と協力して出島にてオランダ人・テキストルに嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。 その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を受けた。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで1万斤を集め、アメリカに輸出した。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。文久元年(1861年)に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、慶応元年(1865年)に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。 日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬・大隈重信・松方正義・陸奥宗光らと親交があったとされる。 しかし、1860年代が終わろうとする頃、九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えて、茶の輸出業に陰りが見えはじめる。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。
※この「日本茶貿易」の解説は、「大浦慶」の解説の一部です。
「日本茶貿易」を含む「大浦慶」の記事については、「大浦慶」の概要を参照ください。
- 日本茶貿易のページへのリンク