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施愚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/03 10:57 UTC 版)

施愚
『中国近現代名人図鑑』より 
プロフィール
出生: 1875年光緒元年)
死去: 1930年民国19年)
中華民国
出身地: 四川省重慶府涪州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 施愚
簡体字 施愚
ピン音 Shī Yú
和名表記: し ぐ
発音転記: シー ユー
ラテン字 Shih Yü
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施 愚(し ぐ、繁体字: 施愚; 簡体字: 施愚; ピン音: Shī Yú; ウェード式: Shih Yü)は、末・中華民国の政治家。鶴雛。号は小山

事績

1898年光緒24年)、戊戌科進士となり、翰林院で編修に任ぜられた。同年から日本・アメリカ・ドイツの各国に留学している。帰国後は戸部江西司主事に任ぜられ、1905年(光緒31年)、考察憲政大臣顧問や山東巡撫となった。1907年(光緒33年)、憲政編査館科員となり、後に度支部清理財政処総弁に転じている。1911年宣統3年)5月、弼徳院参議となり、後に法制院副使に任ぜられた[1]

1912年民国元年)に中華民国が成立すると、施愚は大総統府秘書として起用され、同年7月に法制局局長兼法典編纂会会長に任命された[2]1914年(民国3年)3月、約法会議副議長に任ぜられ、6月には参政院憲法起草委員会委員として、いわゆる「天壇憲法」の起草に従事している。袁世凱が皇帝即位を目論むと、1915年(民国4年)9月に施は洪憲大典籌備処委員に任ぜられ、また一等伯爵にも封じられた[3]。しかしこのために、護国戦争後に袁が死去すると、施も皇帝即位画策の主犯として指名手配されてしまう[1]

後に赦され、直隷派江蘇督軍である李純の幕僚となる[3]1919年(民国8年)2月には上海で行われた南北和平交渉に北方代表の1人として加わった。1925年(民国14年)8月、国憲起草委員会委員に招聘され、1927年(民国16年)1月には安国軍総司令部政治討論委員会委員を務めている。晩年は政界を離れ、北京や上海に寓居した。1930年(民国19年)、死去。享年56[1]

  1. ^ a b c 徐主編(2007)、1041頁。
  2. ^ 郭主編(1990)、53-54頁。
  3. ^ a b 華夏経緯網(2003)。

参考文献

  • 徐友春主編 『民国人物大辞典 増訂版』 河北人民出版社、2007年ISBN 978-7-202-03014-1
  • 郭卿友主編 『中華民国時期軍政職官誌』 甘粛人民出版社、1990年ISBN 7-226-00582-4
  • 「施愚」華夏経緯網、2003年6月26日。



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