新町の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 05:12 UTC 版)
1671年(寛文11年)、備中松山藩主水谷氏から普請を受けた大森氏の干拓事業により、羽黒神社のある阿弥陀島から柏島丸山を結ぶ堤防が建設された。この堤防は、農地を拡張するためだけではなく、松山藩の外港を整備するため、海中に港湾交易施設としても建設された。新町には高梁川流域の港問屋が移住し、港に臨む堤防南面には蔵が、堤防北側には店舗をもつ問屋街が建てられ、個性的な景観が形成された。商業活動が活発になるにつれ当初に敷地では手狭になり、何度かに渡って海が埋め立てられ拡張された。江戸時代、明治時代では玉島港周辺では新町は問屋と仲買、仲買町は卸小売、通町では仲買、卸、小売、常盤町では宿が多いという特徴が見られた。 1938年(昭和13年)、新町北側の里見川一部が埋め立てられて、水面に囲まれた特徴的な景観が失われた。近年、伝統的な建築物が徐々に失われ駐車場となる場所が散見される。 女流歌人・安原玉樹の生家 漢学者・川田甕江の生家、大国屋 西国屋の蔵 西国屋の蔵の内部
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