新労農党結成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:24 UTC 版)
「労働者農民党 (1928)」の記事における「新労農党結成へ」の解説
一方、政獲同盟の幹部となった大山や細迫兼光らは労農党再建を諦めず、1929年の四・一六事件による共産党の徹底的壊滅で同党の影響力が低下したのち、8月に突如「新労農党結成の提案」を発表し、政獲同盟は混乱に陥った(同年11月には大山を委員長とする新労農党(正式な党名は「労農党」)が結成された)。同盟本部は大山らを即時除名し、共産党は大山らを裏切り者とみなし政獲同盟を共産党寄りの組織とするべく引き締めを行ったが、成果は上がらず同盟は秋に自然消滅した。 なお、戦後になって日本共産党は、労働者農民党結成大会における玉砕方針は「セクト主義的な誤りでした」と自己批判している(『日本共産党の八十年』p.35)。自党の影響力拡大のため合法政党の再建を妨害する共産党系の動きは、こののちも「新労農党解消運動」の形で展開されるが、結局のところ無産政党のなかでの左派の影響力を後退させ、逆に中間派・右派の主導権を強めることになった。
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