排他的職域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:37 UTC 版)
群内の大工は他領大工の進出を阻止し、強力な排他的職域を有していた。 郡内に進出しようとした下山大工や甲府町方大工との間で数々の訴訟が起こされ、進出阻止をしている。 国中と郡内との間に大工の営業上の交流は殆ど無かったという結果が出ている。 国中の大工が棟梁を勤めた唯一の例外は、武田信玄が造営したと伝えられる北口本宮冨士浅間神社東宮本殿(永禄4年・1561年)で、甲州大工小山善衛門と小嶋出くへもんの名が記されており、郡内で甲州とは国中を指す為と、恵林寺大工として知られる小嶋姓大工との関係が伺われ、信玄が北口本宮最初の造営に国中の大工を派遣したことがうかがわれる。 檜皮大工(屋根大工)は、甲府の檜皮師が河内・郡内まで取り仕切っており、大工とは異なった営業圏を有していた。 彫り物大工は、冨士山下宮浅間神社本殿(明和4年・1767年)で初めて外部の彫り物大工、武州の江原弥平治に依頼が行われ、続く生出神社(おいでじんじゃ)本殿(明和5年・1768年)にて、江戸の彫り物大工後藤正常・正道親子による総彫りの本殿が造営された(棟梁は上鳥沢村、大森三左衛門藤原保義・谷村、花田甚助)。 文政10年(1827年)には、その職域の牙城が崩れた。それは野田尻(現上野原市野田尻)の戌嶋神社で、相模国大山の明王太郎が請け負った。 明王太郎が郡内域に入ったことで訴訟が起こされ、経緯が残る。当初戌嶋神社造営は桑久保村の大工伝右衛門が請け負うことで進んでいたが、125両と見積もりが高く、隣村である野田尻村文左衛門に相談したところ、職縁がある明王太郎を招き90両の見積もりを立てた。その後「済口証文」が作成され明王太郎が棟梁となり普請を請け負うこととなった。
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