捧賢一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/25 23:15 UTC 版)
ささげ けんいち
捧 賢一
|
|
---|---|
生誕 | 1933年6月24日![]() |
死没 | 2018年5月8日(84歳没) |
出身校 | 新潟県立加茂農林高等学校 |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | コメリ 社長・会長 雪梁舎美術館 設立者 |
公式サイト | 公式ウェブサイト |
捧 賢一(ささげ けんいち、1933年6月24日 - 2018年5月8日)は、日本の実業家。株式会社コメリの創業者、名誉会長ファウンダー。
略歴
- 1933年 - 新潟県三条市に生まれる。
- 1953年 - 新潟県立加茂農林高等学校を卒業。父親が経営する米穀商「米利商店」に勤務。
- 1962年 - 「米利商店」が株式会社に組織変更。株式会社米利商店の取締役に就任。
- 1973年 - 「株式会社米利商店」が「株式会社米利」に商号変更。
- 1976年 - アメリカへ赴きホームセンターを視察。米穀商から燃料販売へ転向し、オイルショックに喘いでいた会社の業態転換を決意。
- 1977年 - 「コメリホームセンター」1号店を新潟県三条市に開店。
- 1979年 - 株式会社米利の代表取締役社長(第2代)に就任。
- 1985年 - 「株式会社米利」が「株式会社コメリ」に商号変更。カタカナ表記の創業者となる。
- 2003年 - 同社代表取締役会長に就任。
- 2014年 - 同社取締役会長に就任。
- 2015年 - 同社取締役を退任。名誉会長ファウンダーに就任。
- 2018年 - 肺炎のため入院先の病院で死去。84歳没[1]。
人物
- 商売に気乗りしなかった二十代にはうたごえ運動などに参加。仕事よりも社会運動に精を出していたため、家族には心配されたと言う。
- 雑誌「商業界」の主幹である倉本長治の「真心を持って人々に奉仕する」との考えを知り、二十代後半に商売人として目覚める。この考えは「人々の幸せのために仕事をする」との社訓「コメリの願い」にも生かされている。
- 緑川玄三に「社長ならまともな文も書けるように」と忠告され、越後文学会に入る。その影響で、榊鶏司の名前で写真と文章を社内報に執筆するようになる。2004年には、社内報の内容を二冊の本(『店のある街の風景』と『残映-心にのこる出会い-』)に纏め自費出版をした。また新潟市の雪梁舎美術館で写真展も開催している。使用するカメラはコメリの備品で技術は独学による。写真を撮るうちに土門拳などの写真集の鑑賞も趣味となった。
著書
- 店のある街の風景(2004年、東京経済出版)
- 残映-心にのこる出会い-(2004年、東京経済)
- 微笑佛(2006年、商業界)
親族
- 父:捧寅七
- 1952年 - 米穀商「米利商店」創業
- 1962年 - 米利商店 社長(株式会社設立)
- 1973年 - 米利 社長
- 1979年 - 米利 会長
- 弟:捧欽二
- 1997年 - コメリ 副社長
- 2001年 - コメリ 常勤監査役
- 妻:捧ミヨエ
- 娘:捧実穂
- 2014年 - 雪梁舎美術館 理事長
- 娘婿(養子):捧雄一郎
脚注
- ^ コメリ創業者 捧名誉会長が死去 NHK NEWS WEB 2018年5月11日閲覧。
外部リンク
固有名詞の分類
- 捧賢一のページへのリンク