成りあがるとは? わかりやすく解説

成りあがる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)

劉裕」の記事における「成りあがる」の解説

隆安3年399年)、五斗米道信者中心に起こった孫恩の乱において、劉裕北府軍の劉牢之配下将となり、多く勝利を挙げた。対孫恩戦で挙げた武功より、建武将軍への昇進を果たす。隆安5年401年)に再び孫恩らが襲来建康攻撃仕掛けるも叶わず撤退。これを徹底的に追撃して海辺駆逐した元興元年402年)、西府軍団率い桓玄首都救援名目建康制圧したこの際劉牢之桓玄寝返り考える。劉裕劉牢之の甥である何無忌はそれを懸命に諌める聞き入れられず、結果桓玄司馬道子らを殺害して実権握った後悔した劉牢之江北逃れてともに再起図ろう劉裕誘ったが、劉裕は「将軍は強卒十万率いながらも投降し全軍支持失ったではありませんか!」と述べて拒絶した劉牢之孤立して最期には自殺し劉牢之失った北府軍団解体され劉裕桓玄支配属する。 元興2年403年10月桓玄安帝司馬徳宗廃して国名として自ら皇帝称した桓楚)。この際桓玄劉裕高く評価し酒宴何度も開いて慇懃丁寧に応対し贈与品も手厚くした。 元興3年404年2月劉裕何無忌劉毅諸葛長民らを同志として、桓玄打倒のため決起した劉裕京口にて桓玄のいとこである桓修切り捨てる飛ばし建康向かった劉裕軍はわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄繰り出す兵はことごとく破られた。桓玄は舟で長江から江陵逃走し幽閉していた安帝連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉毅何無忌劉道規の軍に蹴散らされ江陵失い5月には蜀で馮遷殺された。劉裕桓玄追放されていた安帝復位させた。 桓玄打倒安帝復位功績により、劉裕鎮軍将軍都督十六諸軍事とされた。

※この「成りあがる」の解説は、「劉裕」の解説の一部です。
「成りあがる」を含む「劉裕」の記事については、「劉裕」の概要を参照ください。

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