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志佐要一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 14:39 UTC 版)

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志佐 要一郎
通称 岡右衛門
生年 天保12年(1841年
生地 肥前国松浦郡平戸島
没年 明治10年6月14日1877年7月24日
没地 東京府佃島監獄
思想 征韓論
活動 士族反乱
平戸藩
裁判 大審院
影響を与えたもの 浦敬一
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志佐 要一郎(しさ よういちろう、天保12年(1841年) - 明治10年(1877年7月24日)は幕末平戸藩士、不平士族。幼名は源太郎、通称は岡右衛門[1]。維新後中山尚之介等と政体改革を謀り、国事犯として捕らえられ、獄死した。

生涯

平戸藩出仕

安政5年(1858年)1月16日大内蔵組に入り、安政6年(1859年)6月20日家督相続、万延元年(1860年)1月22日名代役、閏3月24日近習となり、文久2年(1862年)1月11日藩主松浦詮の秋の参勤交代へ御供を命じられた[1]

慶応元年(1865年)11月14日鞍掛馬十郎と筑前国方面へ派遣され、20日土方久元に面会したほか[2]薩摩藩等の動向を探った[1]

上京

明治6年(1873年)5月平戸藩常平社の奨学金を受けて[3]東京の情勢を伺うため田村成之等と上京し、柳原町二丁目1番地松浦詮邸に滞在した[4]

明治7年(1874年)1月佐賀の乱を受けて一旦帰郷し、鹿児島県中山尚之介、五代競太と知り合い、4月帰京した[4]

逮捕

明治8年(1875年)9月江華島事件を受けて征韓論が高まる中、島村安度、河原塚茂太郎、中山尚之介、中沼精蔵、山本克と会し、朝鮮征討の先鋒を称して同志を集め、政府に政体改革を迫ることを話し合った[4]。その後中山尚之介、児玉等から木戸孝允大久保利通の刺殺計画を聞き、東京に滞在して事変を待ち構えていたところ、明治9年(1876年)2月7日拘引された[4]。5月12日大審院により士族身分剥奪、懲役2年206日が言い渡され、旧暦6月14日佃島監獄で病没した[1]

明治22年(1889年)12月27日勅令第12号により大赦を受け、内乱に関する罪は消滅した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 平戸尋常高小 1917, pp. 279-280.
  2. ^ 松浦伯爵家編修所 1930, p. 412.
  3. ^ 塙 1924, pp. 16-17.
  4. ^ a b c d 「鹿児島県士族中山中左衛門等犯罪処断」

参考文献




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