徳川徳松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/27 10:22 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 延宝7年5月6日(1679年6月14日) |
死没 | 天和3年閏5月28日(1683年7月22日)[1] |
戒名 | 浄徳院殿霊岳崇心大童子 |
墓所 | 東京都港区増上寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 上野館林藩主 |
氏族 | 徳川氏(館林徳川家→徳川将軍家) |
父母 | 父:徳川綱吉、母:お伝の方(瑞春院) |
兄弟 | 鶴姫(徳川綱教室)、徳松 |
徳川 徳松(とくがわ とくまつ)は、江戸時代前期の大名。上野館林藩主。徳川綱吉の長男で、綱吉の江戸幕府第5代将軍就任に伴って将軍家世子となるが、夭折した。
略歴
延宝7年5月6日(1679年6月14日)、当時館林藩主だった綱吉の嫡男として江戸の神田御殿で生まれた。母は堀田将監(小谷正元)女のお伝の方(瑞春院)。同母姉に紀州藩主徳川綱教室となった鶴姫がいる。なお、「徳松」は父の綱吉も名乗っていた幼名である。
延宝8年(1680年)5月に綱吉が長兄の4代将軍家綱の継嗣となったため、数え二つ(満11か月)で館林徳川家の家督を継いだ。同年11月27日に、江戸幕府第5代将軍になった綱吉と共に神田御殿から江戸城西の丸に移り、館林藩主のまま綱吉の世子に定められ[2]、松平忠冬・堀田正英・内藤重頼・黒田直邦・岡田俊陳・稲垣重定・本庄宗資・堀田正休・川勝隆尚らの旗本や御家人が傅役として徳松に仕え、老中の板倉重種も徳松付の西の丸老中を兼ねてこれを支えた。
しかし、徳松は天和3年閏5月28日(1683年7月22日)に数え五つ(満4歳)で夭折した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。墓所は東京都港区の増上寺にある。徳松の没後、館林藩は廃藩となり、藩領は幕府直轄領に編入されて館林城も破却され[2]、館林徳川家は2代で廃絶した。
出典
参考文献
- 塚本学 『徳川綱吉』吉川弘文館(人物叢書)、1998年、ISBN 4-642-05210-0
関連項目
- 七五三 - 天和元年11月15日に徳松の健康を願って行われた催しがその嚆矢という。
固有名詞の分類
- 德川德松のページへのリンク