御三階櫓二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3階の隅櫓。池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となった。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建されている。1階は8間四方、2階は6間四方、3階は4間四方と規則正しい逓減率となっている。古写真によれば、黒の下見板張り・瓦葺きで、飾り破風は一切ない。櫓台の東側に入り口が設けられ、階段を上ると1階中央に達するようにできていた。諸記録には、軒高4丈5尺(約14.8メートル)と記されているが、城郭建築史家の松岡利郎は古写真より復元図を起こしたところ、櫓台からの高さは17.8メートルであったと推定している。隅櫓ではあるが、その規模は三重天守の宇和島城天守(15.7メートル 3層3階)、丸亀城天守(14.5メートル 3層3階)をしのぐ。ほぼ同じ高さのものでは、犬山城天守(18メートル 3層6階)がある。走櫓
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「鳥取城」の記事における「御三階櫓二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3階の隅櫓。池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となった。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建されている。1階は8間四方、2階は6間四方、3階は4間四方と規則正しい逓減率となっている。古写真によれば、黒の下見板張り・瓦葺きで、飾り破風は一切ない。櫓台の東側に入り口が設けられ、階段を上ると1階中央に達するようにできていた。諸記録には、軒高4丈5尺(約14.8メートル)と記されているが、城郭建築史家の松岡利郎は古写真より復元図を起こしたところ、櫓台からの高さは17.8メートルであったと推定している。隅櫓ではあるが、その規模は三重天守の宇和島城天守(15.7メートル 3層3階)、丸亀城天守(14.5メートル 3層3階)をしのぐ。ほぼ同じ高さのものでは、犬山城天守(18メートル 3層6階)がある。走櫓」の解説
二の丸の南東隅にあり、御三階櫓とは土塀で連結されていた。石黒火事で焼失したが翌年に再建された。二の丸に御殿があった頃は、「御櫓評定」と呼ばれる家老衆の政務がこの中で行われた。
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「御三階櫓二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3階の隅櫓。池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となった。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建されている。1階は8間四方、2階は6間四方、3階は4間四方と規則正しい逓減率となっている。古写真によれば、黒の下見板張り・瓦葺きで、飾り破風は一切ない。櫓台の東側に入り口が設けられ、階段を上ると1階中央に達するようにできていた。諸記録には、軒高4丈5尺(約14.8メートル)と記されているが、城郭建築史家の松岡利郎は古写真より復元図を起こしたところ、櫓台からの高さは17.8メートルであったと推定している。隅櫓ではあるが、その規模は三重天守の宇和島城天守(15.7メートル 3層3階)、丸亀城天守(14.5メートル 3層3階)をしのぐ。ほぼ同じ高さのものでは、犬山城天守(18メートル 3層6階)がある。走櫓」を含む「鳥取城」の記事については、「鳥取城」の概要を参照ください。
- 御三階櫓二の丸の南西隅、市街地に面して建っていた3層3階の隅櫓。池田光政による元和の大改築時に建造されたと考えられており、山上の丸の天守が焼失してからは鳥取城を象徴する建物となった。石黒火事で焼失したあとも8年後に再建されている。1階は8間四方、2階は6間四方、3階は4間四方と規則正しい逓減率となっている。古写真によれば、黒の下見板張り瓦葺きで、飾り破風は一切ない。櫓台の東側に入り口が設けられ、階段を上ると1階中央に達するようにできていた。諸記録には、軒高4丈5尺と記されているが、城郭建築史家の松岡利郎は古写真より復元図を起こしたところ、櫓台からの高さは17.8メートルであったと推定している。隅櫓ではあるが、その規模は三重天守の宇和島城天守、丸亀城天守をしのぐ。ほぼ同じ高さのものでは、犬山城天守がある。走櫓のページへのリンク