後見人チョバン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 02:33 UTC 版)
チョバンに厳罰を科された将校がチョバン暗殺を企てると、サイードは軍を率いてチョバンを助けてかつての恩に応えた。1320年にチョバンとサイードの妹サティ・ベク(英語版)が結婚、アリー・シャーの失脚(進退窮まって自殺したと考えられる)後、国政は財務総監(サーヒブ・ディーワーン)にはラシードゥッディーンの息子ギヤースッディーン・ムハンマドが復権し、チョバンとその一族が担った。1323年にはマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドと和睦を成立させる。 ところがサイードは成長するにつれ、チョバンの権勢を憎悪するようになった。更に1325年にはチョバンの娘であるバグダード・ハトゥンに横恋慕してしまう。彼女は既にイルハン朝の有力なアミールであったシャイフ・ハサン(大ハサン)に嫁いでいたのだが、サイードは彼女を強引に妃にしようとした。チョバンはこれを憂えて、サイードに冬営地をバグダードにするべきと進言する一方で、娘夫婦をアフガニスタン南部のカラバクに移した。彼にすれば君主の一時的な横恋慕で引き離せば解決すると考えたのだが、サイードの恋心は募るばかりであった。そして1326年に自らの恋を邪魔するチョバンと一族は専横がすぎるとしてその討伐を決意。これに対してチョバンも対抗したが、ほとんどのアミールはサイードを支持してチョバンはヘラートに逃亡する。だがチョバンと息子たちは1327年に殺害され、バグダード・ハトゥンもサイードの妃となった。
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