式部正宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:04 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動式部正宗(しきぶまさむね)、あるいは式部榊原正宗(しきぶさかきばらまさむね)は日本刀。駿州府中城主の中村家から榊原式部大輔康政を経て徳川家康に献上されたものと[1]、島津家に伝来した二振りがある[2]。前者は昭和10年(1935年)に重要美術品に認定されたものの昭和20年(1945年)に焼失、後者は第二次世界大戦で拵(こしらえ)と共に焼失した[2]。
徳川家の式部正宗
享保名物帳に掲載されているが、刀剣研究家の福永酔剣によると長さの二尺二寸七分五厘は誤記となっている[2]。本作は徳川家康の家臣である榊原式部大輔の佩刀だった[3]。本作は徳川中期の正徳頃に二千三百七十五両で松平家に購入された[3]。本阿弥は貧しい大名であった松平家がこれだけの金額を出したことが、正宗の制作した日本刀が大事に扱われていたことの証左だとする考えを述べている[4]。本作は川越市立博物館の所蔵する松平大和守家の『御腰物帳』に掲載されている他[5]、名物帳にて以下の記述がなされている[3]。
式部榊原正宗 磨上長貳尺貳寸七分半 代金七百枚松平大和守殿
榊原式部大輔殿所持、家康公ニ上ル、中切鋒、表裏樋、切込コボレのシシキ有、寛文八、七千貫也、元祿之頃右之代に成。
本作はその後前橋藩主の松平大和守家に伝わり、東京大空襲にて焼失した[6]。
前橋東照宮は2016年の家康没400周年の記念の一環として、松平家に伝わる名刀を残された写真や資料に基づいて復元することを発表した[7]。それによると同年4月17日に開催される「徳川家康薨去400年」で火入れ式を行い、その際刀の鍛錬を公開するとした[7]。これを歴史遺産を活用した街づくりの一環にしたいと述べた[7]。また当時若い女性の間で流行した刀剣育成シミュレーションゲーム『刀剣乱舞 -ONLINE-』に本作をモデルにしたキャラクター制作を依頼した[7]。2017年には松平家など4大名のPRに力を入れる群馬県前橋市によって復元のため、「前橋藩主松平大和守家顕彰祭」にて刀の打ち初め式が開催された[6]。この際天下三名槍の一つである御手杵のレプリカが三本展示された他、槍の演武も行われた[6]。
島津家の式部正宗
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
脚注
出典
- ^ 福永 1993, pp. 7–8.
- ^ a b c 福永 1993, p. 8.
- ^ a b c 本阿弥 1943, p. 216.
- ^ 本阿弥 1943, p. 217.
- ^ 「『館蔵刀剣大公開!』開催中」『特別展示室』川越市、2020年10月24日。2020年11月14日のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月14日閲覧。
- ^ a b c 「松平家ゆかりの名刀復元 前橋藩主顕彰 作業体験も」『読売新聞』朝刊、読売新聞社、2017年4月18日、30面。
- ^ a b c d 「徳川由来の名刀復元 前橋東照宮、松平家と協力」『日本経済新聞』地方経済面、北関東、2016年2月20日、41面。
関連項目
参考文献
- 本阿弥光遜 「三、名物 式部正宗」 『近代戦と日本刀』 玄光社、1943年。 NCID BN13502368 。
- 福永酔剣 『日本刀大百科事典』 3巻 雄山閣出版、1993年11月20日。ISBN 4639012020。 NCID BN10133913。
式部正宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 16:00 UTC 版)
転封が続いた先代に続き、上記のように手伝い普請や分知のために藩財政はさらに窮乏していたが、以後同家の家宝として伝来した名刀「式部正宗」は基知が大金で購入したものである。 式部正宗は当初中村一氏(式部少輔)が所持していたが、榊原康政(式部大輔)の手に渡り将軍家に献上された。そこでこの名がついたとされる。売却された経緯は不明だが、正徳2年(1712年)に2729両で購買したとされる。 昭和10年(1935年)重要美術品に認定されたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲の際、大久保の松平邸所蔵庫が焼夷弾を受け、鎌倉時代以来の結城家の古文書や名槍「御手杵」などと共に被災し焼失した。
※この「式部正宗」の解説は、「松平基知」の解説の一部です。
「式部正宗」を含む「松平基知」の記事については、「松平基知」の概要を参照ください。
- 式部正宗のページへのリンク