平林巌と習志野原の開拓
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「陸軍習志野学校」の記事における「平林巌と習志野原の開拓」の解説
平林巌は、盛岡高等農林学校(現岩手大学)を出て、終戦時に予備士官として習志野学校にいた。平林の兄は八ヶ岳山麓を開墾し野辺山農場を経営しており、このことが平林を習志野開拓に駆りたてたと言われている。 終戦直後の昭和20年(1945年) 8月17日、横山教導連隊長から習志野学校の職員・生徒に対して、習志野原を開拓し新農村を建設し新生日本の復興に寄与するようにとの話があり、この話に感銘を受けた平林巌は、21日単身新宿三越にあった農地開発営団に乗り込み、習志野原開拓に関する全権を得ることに成功する。 9月11日には鍬入式が行われ、ここに習志野原開拓の歴史の幕が開いた。全国から入植者を募った結果、軍関係者や外地からの引揚者が多く応募した。当初、開拓団の中心は平林巌を中心とした習志野学校関係者で、集団農場方式の開拓を目指したが、やがて米軍による開拓地の接収や農地開発営団の解散などもあり、習志野学校関係者の影響力は失われ、農地は分割して個人所有となった。 開拓団は後に帰農組合となり、これが後に分裂し南北の習志野開拓農業組合となり、1970年(昭和45年)に南の組合が、1972年(昭和47年)には北の組合がそれぞれ解散し、ここに習志野開拓は歴史の幕を閉じた。
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