師家の子孫と南北朝争乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:07 UTC 版)
その後、師家の弟や息子の代には大納言や権大納言を輩出した。特に師家の弟忠房は、寛元4年(1246年)に九条道家・一条実経親子が失脚した時に次の摂関の候補者に挙げられた経緯(『民経記』寛元4年9月25日条)があり、松殿家が摂関家として存続する可能性も存在した。だが、基房-師家を継ぐ摂関はついに登場せず、次の世代には位こそは正二位に進むことはできても、官職は権中納言・参議がやっととなる。そして南北朝時代の松殿忠嗣(基房の玄孫)は二条良基の側近として活躍し、暦応3年(1340年)に44歳で従三位になると、6年後に参議、さらに延文2年(1357年)には権大納言に昇っている。だが、松殿家は後に南朝側へ離反し、南北朝合一後は再び衰退へ向かう。
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