市街路の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:46 UTC 版)
793年(延暦12年)平安京が新しい都に選ばれ、その翌年の794年に長岡京から遷都されたときは、東西約4.5 kmのあいだに33本の通り、南北5.2 kmのあいだに39本の通りが通されて、碁盤の目状に整然と区画された。平安京の町並みは、室町時代に勃発した南北朝の戦い(1336年 - 1392年ごろ)や応仁の乱(1467年 - 1477年)で幾度も焼失して荒廃した。その復興の際に市街路を狭くして、それまで市街路があったところに家屋が建てられたりしたもしたが、市街路のどこの場所を狭くするかは京都市街の場所によってまちまちであったため、道幅の広い所や狭い所があったり、まっすぐになっていない道が出来たりもした。しだいに市街路に面したところに商店が軒を連ねるようになって土地が不足するようになっていったが、市街路で区画された土地の中央部分は空き地になっていた。京都の土地不足は、桃山時代の豊臣秀吉によって、各区画の中央部で空き地になっている土地を有効利用して土地不足を解消するために、南北方向に道路が5本増やされた。これが功を奏し、さらに京都の人々の手によって南北方向の道路が増やし続けられた。このため、現在の京都市街地の通りは碁盤の目状ではなくなっており、東西方向の通りと比較して、南北方向の通りの方が数が多く、間隔は狭く並んでおり、街路に囲われた土地区画も長方形になっているところが多い。 「京都市内の通り」も参照
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