市川日活館の時代とは? わかりやすく解説

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市川日活館の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 14:54 UTC 版)

市川オークラ劇場」の記事における「市川日活館の時代」の解説

戦後は、1946年昭和21年9月には日活賃借して市川三松館として開館し同年11月、同館の経営権奥沢唯一郎から日活譲渡され直営館となり、1950年昭和25年)までに日活三松館改称した同年市川映画館経営していた簱興行は同館を閉館し、同市内本八幡駅前に八幡映画劇場開館した三松館は、1952年昭和27年)には市川日活館改称当時の同館では、同年1月25日ユナイト映画松竹配給日本初公開された『カーネギー・ホール』、前年12月27日ワーナー・ブラザース配給日本初公開された『ダラス』などが上映されており、日活当時まだ製作拠点持っておらず、同館のような直営館では他社配給する洋画などが上映されていた。永井荷風は、同年5月20日に同館で『アンナ・カレニナ』(配給東和映画東宝日本公開1951年9月11日)を観たことを日記断腸亭日乗』に記している。 1953年昭和28年9月日活戦後初の製作拠点として、東京都調布市日活撮影所開き1954年昭和29年)には同館を大蔵貢経営する大蔵興行所(現在の大蔵映画)に売却した大蔵傘下になってからも「市川日活館」の館名はそのままであった同年簱興行八幡文化劇場開館し、同市内映画館は4館になった同年島尾敏雄が妻のミホとともに忘れられた人々』(配給松竹パールハウス映画日本公開1953年8月11日)を同館で観たことが『「死の棘」日記』に記されている。

※この「市川日活館の時代」の解説は、「市川オークラ劇場」の解説の一部です。
「市川日活館の時代」を含む「市川オークラ劇場」の記事については、「市川オークラ劇場」の概要を参照ください。

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