工藤祐経との抗争とは? わかりやすく解説

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工藤祐経との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:13 UTC 版)

河津氏」の記事における「工藤祐経との抗争」の解説

久須見入寂心伊東祐隆)には数多くの子息がいたが、皆早世してしまった。そこで、後妻の娘の子である祐継に伊東荘を与え伊東の姓を名乗らせて後継者とした。しかし、実子・祐家の孤児である祐親を不憫に思い、これも養子として引き取った。祐隆は、祐親に河津荘を与え河津の姓を名乗らせた。これが、河津氏始まりである。 本来は嫡孫であるにも係わらず次子扱いされたことに祐親は不満を感じていたらしく、『曽我物語』では祐継のことを「異姓他人継娘の子」と罵る場面見られる。 祐隆が死去すると、祐継が家督継いだがその祐継も程なくして死去した。祐継は臨終の際に、嫡子工藤祐経義弟河津祐親呼び、祐親に祐経の後事託し工藤祐経に対しても祐親を親のように思え遺言残した。祐親は表面上これに従い、祐経に娘・万劫御前を嫁がせたが、内心所領奪還考えていた。祐経が上洛すると、祐親は好機捉え、祐経の相続地である伊東荘を強奪し更には妻の万劫御前奪って土肥遠平に嫁がせた。因みに伊東荘を強奪の際、祐親は名字河津から伊東改め河津名字嫡子河津祐泰継承したが、この祐泰が曾我兄弟の父である。祐親の次子祐清伊東名字名乗ったこのような祐親の行為に祐経は憤激し上方平家)に取り合ったが、祐親の買収工作拠り悉く失敗した。 そこで工藤祐経直接、祐親を討って遺恨を晴らさんと、安元2年1176年10月、己の郎党に祐親の狩の帰り狙い矢を射させた。しかし、その矢は祐親ではなく河津祐泰命中し、祐泰は死亡した。祐泰の妻・満江御前その子一萬丸と箱王が残されたが、祐親はこれを不憫思い満江御前曾我祐信に嫁がせ、一萬・箱王兄弟は祐信の許で養育されることになった

※この「工藤祐経との抗争」の解説は、「河津氏」の解説の一部です。
「工藤祐経との抗争」を含む「河津氏」の記事については、「河津氏」の概要を参照ください。

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