川合安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
川合は宮崎の「門地二品」・越智の「族門制」にそれぞれ疑問を投げかける。 門地二品については、宮崎は郷品二品以上が門地二品であり、この階層に属する者は自動的に高い官職を得られ、逆にこの層に属しない者はたとえどんなに才能があろうともこの層に編入することは不可能であったとする。しかし川合は門地二品という言葉は郷品二品の中で上層を示す言葉であり、郷品二品が門地二品に独占されたものではないとした。族門制に付いては20歳前後で起家する甲門、30歳前後で起家する後門という階層には大体分かれていたことは認められるが、越智の言うような次門層は当時に存在していないとした。 そして「父祖の家格によって自動的に官職の高下が決定される」というこれまでの通説的貴族制理解に対して疑問を投げかける。 川合は当時の起家について最も参考とされたのは父・祖父の官職であり、それに親類縁者の家格などを考慮に入れて、起家が決定された。仮に父が早世したなどの理由で低い官職で終わった場合にはその子たちは低い起家官を割り付けられることになる。逆に功績を挙げて一気に昇進した者の子には高い起家官が約束される(但しそれら成り上がりに対する反発から昇進は難しい面もあったと思われる)。したがってその家に生まれただけで高官を約束されるような体制は六朝時代には最後まで存在せず、下からの成り上がりや上からの没落も存在するように当時の貴族社会はある程度流動的なものであり、門閥と呼べるような何代にもわたって高官を出す家は存在したが、それはあくまで結果であるとした。
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