すうげん‐いん〔‐ヰン〕【崇源院】
崇源院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 00:17 UTC 版)
崇源院(すうげんいん/そうげんいん[注釈 1])は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう[注釈 2])の名で知られるが、諱は達子(みちこ)[注釈 3]で、追贈された贈位は従一位。
注釈
- ^ 下記を参照。
- ^ a b 小督の読みは「おごう」と「こごう」のニ通り考えられるが、ここでは貴人の娘や妻に対する敬称である「御料人」と対になる幼名の敬称(敬語)の「お(小)」が付いたものであるから、読みは「おごう」とするのが適切である[5]。
- ^ 後述するが、死後につけられた実名で、生前には用いられていない。また「みちこ」の読みは『中院通村日記』のふりがなによる。
- ^ 豊臣秀吉側室。異説だが、市の連れ子(異父姉)という説もある。
- ^ 京極高次正室。
- ^ 姉茶々の猶子となった。
- ^ 姉の茶々は永禄12年(1569年)頃、初は元亀元年(1570年)頃の出生であると想定されている
- ^ なお、この時に兄・万福丸は信長の命により殺されている
- ^ 鳥取県立博物館所蔵「佐治幾衛家譜」「佐治所平家譜」ともに未翻刻資料であるが関係部分は下記福田の著書[22]に採録されている。
- ^ 第二次世界大戦終戦後の増上寺周辺の市街地区画整理に伴って、徳川遺物が全国の寺社に譲渡されたが、その折に山梨県の恵林寺に譲渡された石棺が後の研究で2015年に崇源院のものであったと判明した。石棺は恵林寺宝物殿に安置、公開されている。
- ^ 鷹司家より婿養子。
出典
- ^ a b 宮本 2010, p. 59-60.
- ^ a b c 福田 2010, p. 11.
- ^ 福田 2010, pp. 24–25.
- ^ 江戸東京博物館友の会会報「えど友」No.60(2011年)、p.4
- ^ 福田 2010, p. 17.
- ^ 福田 2010, pp. 17–19.
- ^ 福田 2010, p. 18.
- ^ 福田 2010, pp. 15–16.
- ^ a b 福田 2010, p. 23.
- ^ a b c 永田 2011.
- ^ a b 福田 2010, p. 20.
- ^ a b 福田 2010, pp. 20–21.
- ^ 福田 2010, p. 24.
- ^ 福田 2010, pp. 23–24.
- ^ 小和田 1997, p. 44-47.
- ^ 宮本 2010, p. 66-74.
- ^ 宮本 2010, p. 74-75.
- ^ 宮本 2010, p. 112-115.
- ^ a b c 小和田 1997
- ^ a b c 瀧田英二『常滑史話索隠』1965年。
- ^ 福田 2010, p. 60
- ^ 福田 2010, p. 49
- ^ 福田 2010, p. 72
- ^ 宮本 2010, p. 114-123.
- ^ 福田 2010, p. 75
- ^ 宮本 2010, p. 139.
- ^ 片山正彦「豊臣政権樹立過程における於次秀勝の位置づけ」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2
- ^ 福田 2010, p. 85
- ^ 『安土町史』史料編1
- ^ 宮本 2010, p. 255.
- ^ 江(崇源院)から今上天皇までの系譜
- ^ 宮本 2010, p. 224.
- ^ 鈴木尚; 矢島恭介; 山辺知行 編『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会、1967年。
- ^ 鈴木 1985, pp. 89–96.
- ^ 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 大河ドラマの“浅井三姉妹”と“お市” NHKアーカイブス、2022年9月17日閲覧
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