島津氏との協力と再びの対立
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「入来院氏」の記事における「島津氏との協力と再びの対立」の解説
戦国時代に入った文明16年(1484年)、日向国の伊東祐国が島津忠昌に対して謀反を起こすと、入来院重豊は祁答院重度や島津忠廉らと共に同調した。後に島津忠廉と島津忠昌が和睦すると入来院氏は再び島津氏に帰順した。入来院重聡の代になると、島津宗家を支え、忠昌の死後家督を継いだ島津忠治、島津忠隆、島津忠兼に仕えた。 島津勝久と島津実久が島津宗家の座を巡って争うようになると、実久は勝久方の入来院氏らの所領を侵略するようになった。そのため島津勝久は伊作家の島津忠良を頼って、忠良の嫡子・貴久を養子とした。入来院重聡は伊作家劣勢の状況にも関わらず忠良方に味方、重聡は娘を貴久の室とした。後に重聡の娘は名将として高名を馳せる島津義久・義弘・歳久を産んだ。 入来院氏はその後も島津氏の勢力拡大に貢献し、広大な所領を手に入れたが入来院重朝の代になると島津貴久との間に齟齬が生じ、重朝は、肝付兼演や祁答院良重、蒲生茂清らと結んで、再び島津氏と対立するようになる。天文18年(1549年)、島津氏の攻撃によって加治木城が陥落し、肝付氏は降伏。入来院氏ら渋谷一族も島津氏に降伏した。しかし天文23年(1554年)、重朝は祁答院良重や蒲生範清らと再び反旗を翻した。重朝の従兄弟である島津義久、義弘、歳久は岩剣城の戦いで初陣を飾った。入来院氏らは蒲生城の戦い等でも敗戦を重ね、弘治3年(1557年)に蒲生氏が島津氏に降伏すると、渋谷一族も撤退した。 重朝の子、重嗣は同族の東郷氏と連携して島津氏と戦ったが、永禄12年(1569年)、重嗣は東郷重尚と共に島津貴久に降伏した。度重なる抵抗の結果、入来院氏は本領の清色以外の所領を召し上げられた。
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