山越の討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:37 UTC 版)
孫氏の版図である呉郡・会稽郡・丹陽郡には、孫氏の統治に従わず逃散している人々がいたため、陸遜はその中から兵士を募ることを申し出た。山越の不服従民の頭領に潘臨という者がおり、各地を荒し回っていたが、陸遜は志願兵を募って奥地まで出兵してこれを平定し、自身の部曲に編入した兵士は2000人に上った。 建安21年(216年)、賀斉と共に討伐し鄱陽の不服住民の尤突ら数千人の反乱を鎮めた。この功績で定威校尉となり、利浦に軍を駐屯させた。孫権は彼を気に入り、自分の姪である孫策の娘を与えて娶るなど重用された。 建安22年(217年)、孫権が陸遜に政治の意見を求めた。さらなる軍勢の強化と国内の安定を急務だとし、そのためには内憂である山越を討伐し、それを通じて精鋭を増やす事を主張した。孫権は陸遜を帳下右部署(親衛隊長)に任じ、儀仗を授与するとともに、会稽・鄱陽・丹陽の3郡を統治させた。この時、丹陽の不服従民である費桟が曹操の扇動により蜂起したため、孫権は陸遜にこれを討伐させた。陸遜は、大軍を集めた費桟に対し寡兵であったが、夜襲をかけてこれを打ち破った。3つの郡で募兵を行い、精兵を数万人得るとともに、力が劣る者は民戸に編入した。賊達は一掃され治安は強化された。蕪湖に駐屯した。 会稽太守の淳于式は陸遜の行いを見て、不法に民衆を軍隊に編入させて民衆を混乱させている、と孫権に報告した。その後、陸遜は孫権と会話したとき、話題のついでに淳于式を褒め称えたため、孫権は年長者の風格をたたえている。
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