小野正嗣の批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 09:06 UTC 版)
「さようなら、私の本よ!」の記事における「小野正嗣の批評」の解説
フランス文学者・小説家小野正嗣は、大江が小説やエッセイにおいて、自分と書物との有機的な関係や、小説の書き直し・エラボレーションについて血管のイメージを使って説明していることを取り上げて、作家「大江健三郎」とは、読むことと書くことによって形作られた身体であることを説明する。そして自己引用も含んだ引用が大江の作品を生成することを指摘する。 また「おかしな二人組」三部作の一作目『取り替え子(チェンジリング)』に登場した「ある子供が死んだとしても、産みなおされた新しい子供に、死んだ子供が見聞きし・読み・体験したことを全て伝えるならば、新しい子供は死んだ子供とすっかり同じである」という挿話に触れて、我々は死んだ者が使っていた言葉を使い、死んだ者の代わりに生きているのだとする。 小野は、本作の物語内容から、「ロバンソン小説」による「大勝負」の記録、「破壊する(アンビルド)」教本のインターネットによる伝達、隠棲した古義人による「徴候」の記録、などを摘示して、本作は「記録と伝達」をめぐる小説だとする。そして、作中において長江古義人は武、タケチャンら若者にドストエフスキーなどの文学についてのレクチャーを行うが、大江自身も本作で、引用や参照によって世界の文学的遺産の「言葉をつたえていく」ことをおこなっている。そして、言葉を受けつぐ若い者たち、「新しい人」に希望を託しているのだとする。
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