寺島蔵人の藩政批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 16:43 UTC 版)
度重なる御用銀徴収で領民を苦境に陥れている藩政を痛烈に批判したのが、馬廻組の寺島蔵人である。寺島は藩主斉広に抜擢されて、高岡町奉行や定検地奉行などを歴任した逸材で、文政2年(1819年)の十村断獄事件を阻止しようとして謹慎を命じられ、文政7年に役職復帰するなど、藩政改革に3度抜擢され、3度罷免された硬骨漢でもある。化政期に斉広と重臣(加賀八家)との路線の違いから対立が深まるなか、一貫して斉広を支持し、生産者や商人の意義を重視して、富民的政策を行った。しかし斉広の死後、重臣らが再び重農主義政策に回帰し、財政難の解決に御用銀などの安易な政策に頼ると、上層部を激しく批判して斉広の遺命を守るよう主張する上書を提出し、逼塞処分を受ける。さらに天保3年(1832年)10月に家老山崎範古に対し、実績の上がらない門閥上士層を批判し、御用銀の頻発をフグの毒にたとえた「ふぐ汁の咄」を提出した。しかし新藩主斉泰をも揶揄した内容は保守派の猛反撥を呼び、天保7年11月4日(1836年12月11日)、寺島は長連弘の屋敷に召され、秩禄を剥奪されて15人扶持とされたうえ、能登島に配流された。翌年寺島は配流先で死去した。
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