宮崎成身
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宮崎 成身(みやざき-せいしん、生没年不詳:1830年以前 - 1858年以降)は、江戸時代後期の天保期から幕末にかけて活動した、幕臣の武士[1]。江戸幕府の様々な資料編纂事業に従事し、さらに多数の資料を私撰したことで知られ、旗本で教養の高い人物であったとされている[2]。
父は、旗本の惣領から登用された(いわゆる「番入り」した)宮崎平四郎であった[3]。
1841年(天保12年)8月に家督を継ぎ[4]、先手組を経て[2]、1847年(弘化4年)12月に西丸小姓組から小十人頭となり、1857年(安政4年)7月には持弓之頭となったが、1858年(安政5年)9月22日に致仕した[4]。初名を成之(しげゆき)といい、字(あざな)は信卿、通称は太一郎、次郎太夫とし、号は百拙斎、栗軒[1]、また牛込門の近くに屋敷があったため牛門老人とも号した[4]。
宮崎は、江戸幕府がおこなった様々な編纂事業に従事したことが知られており、将軍の狩猟に関する記録をまとめた『大狩盛典』(たいしゅせいてん)や、外交資料を集めた『通航一覧』(つうこういちらん)および『通航一覧続輯』(つうこういちらんぞくへん)[1]。徳川氏にまつわる史料を集成した『朝野旧聞裒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)などの編纂に参画した[4]。
また、公務とは別に、私撰された慶長年間から1786年(天明6年)までの法律集『教令類纂』、1787年(天明7年)から1829年(文政12年)までの法令をまとめた『憲法類集』やその続編で1831年(天保元年)から1854年(嘉永7年)を扱った『憲法類集続編』といった法令集の編集もおこなった[4]。
さらに、1830年(文政13年)から30年以上にわたって収集された、膨大な量に及ぶ雑多な資料を収録した『視聴草』(みききぐさ)を集成したことでも知られる[1]。
脚注
関連項目
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