孫恩の蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/19 06:48 UTC 版)
甥である孫恩は海上の島(舟山群島説など諸説あり)に逃れた。信徒たちは孫泰が死んだという知らせを聞き、仙人になったと考えた。そのため島に赴いて物資を供給した。孫恩は亡命の徒を寄せ集めて100人余りを得たので、復讐しようと考えた。 司馬元顕が暴虐をほしいままにするようになると、呉・会稽(江蘇省・浙江省一帯)の人々は安心して生活することができなくなった。孫恩はこの騒動に乗じて、海上から上虞(浙江省紹興市上虞区)を攻めて県令を殺し、続いて会稽(浙江省紹興市)を襲って内史の王凝之(王羲之の子)を殺した。このとき孫恩の軍勢は数万人に達していた。 これをきっかけに会稽の謝鍼、呉郡(江蘇省蘇州市)の陸瓌、呉興(江蘇省湖州市)の丘尫、義興(江蘇省宜興市)の許允之、臨海(浙江省台州市)の周冑、永嘉(浙江省温州市)の張永、それに東陽、新安などの民衆が一斉に蜂起し、郡の長史を殺して孫恩に呼応したため、10日ばかりの間に孫恩の軍勢は数十万人に膨れ上がった。孫恩は会稽を占領して征東将軍を名乗り、その一党を「長生人」と呼び、神のお告げと宣言して、自分たちに同調しないものを殺害させた。 朝廷では震え上がって内外に厳重な警戒を敷くとともに、衛将軍謝琰、鎮北将軍劉牢之を討伐に向かわせた。孫恩は劉牢之が浙江を渡ったのを知ると、男女20万人あまりを連れて海上に逃れた。その際道端に財宝や子女を捨てていったため、無事に逃れることができた。朝廷では謝琰を会稽内史に任命し、徐州の文官・武官を指揮して海浦(浙江省沿海部)一帯の防衛にあたらせた。
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