孫嫡子信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:57 UTC 版)
江戸期には湯尾峠に4軒の茶屋があり、孫嫡子と書かれた疱瘡よけのお札を売っていた。この孫嫡子信仰は、井原西鶴の「男色大鏡」、近松門左衛門の「傾城反魂香」、十返舎一九の「湯尾峠孫嫡子」といった作品に登場し、全国的に有名であった。当時の信仰を物語るお札の版木などの品々が「湯尾峠孫嫡子遺品一式」として福井県の文化財指定を受けている。 孫嫡子については以下のようにいくつか伝説がある。701年(大宝元年)のこと、役小角が峠茶屋に宿泊した時、そこに住む老夫婦が、子の無い寂しさを訴え、如意輪観音の護符を授かった。やがて身寄りのない鍋倉という名の美しい娘が現れ、老夫婦を手伝うようになった。その年の冬、大雪で長逗留となった青年と娘は結ばれ、男子が生まれ、この子は「孫嫡子」と呼ばれた。青年は「光明童子」という神の化身であり、娘と子供を置いて立ち去った。年月が経ち、老夫婦、娘とも亡くなったあと、孤児となった孫嫡子は峠茶屋を引き続き営んでいたが、32歳の春に藤倉山・鍋倉山の森に姿を消した。往時は光明聖寺を本寺として孫嫡子庵などの七堂伽藍があったという。別の伝説として、719年(養老3年)、孫嫡子は17歳のとき、奈良の東大寺で修行後、藤倉山に帰り、父の光明童子の形見であった如意輪観音像を祀った御堂を建て、多くの旅人たちの病を治したともいう。
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