妻たみ子と囲碁界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 22:18 UTC 版)
慎蔵の妻高田たみ子は、囲碁初段ほどの腕前だったが、1892年(明治25年)頃に囲碁家元の本因坊秀栄と交友を得て、以後囲碁界の後援者として重要な役割を果たした。秀栄、安井算英、及び方円社の中川亀三郎に月々の手当(秀栄には70円、他二人は40円)を出し、また秀栄には湯島天神町に家を提供、当時秀栄の開いていた囲碁奨励会も高田邸で開かれることもあった。 1895年に囲碁奨励会を拡大した研究会「四象会」もたみ子が支援し、出席者には1人50銭の車代を出した。四象会は1904年まで102回続いて秀栄門下に限らず多くの有望棋士を輩出し、「四象会月報」は犬養毅、頭山満、慎蔵などの後援者に配布され、他にも石井千治、田村保寿(本因坊秀哉)など多くの棋士が援助を受けた。だが、たみ子のところに稽古に来ていた秀栄門の野沢竹朝の口の悪さを秀栄に訴えたところ、秀栄は以後援助を断り、資金不足により四象会も終了となった。その後秀栄は研鑽の甲斐あって1906年に名人位襲位を果たす。
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