奥州・日光街道の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 04:09 UTC 版)
「奥州街道」および「日光街道」も参照 慶長7年(1602年)に奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)日光東照社建立以降領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた。寛永2年(1625年)に三宮・大道・大竹・恩間が岩槻藩領になり、寛文2年(1662年)以降、見田方・南百・千疋・四条・麦塚・柿ノ木が東方忍藩領になる。あとの地域はいわゆる「天領」であり、関東郡代の支配地域であった。 奥州道の経路は、「はじめ千住(現東京都足立区)から淵江(現同上)から利根川(現中川)と荒川(現元荒川)の自然堤防上を八条(現八潮市)・大相模・瓦曾根を経て越ヶ谷へという道筋であった」が、慶長17年ごろ越ヶ谷辺りの奥州道の整備が進められた。
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