天香 参禅の師
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明治35年(1927年)天香30歳時に、それまでも度々提唱を聴かれていた南禅寺の豊田毒湛に相見し、参禅することが許された。その後、毒湛老師が妙心寺派管長に就任された後は、河野霧海に師事され厳しい鉄鎚を受けた。同時に毒湛老師はそのまま南禅寺塔頭の南陽院に住されていたので、引き続き豊田毒湛老師の教えも受けておられた。 天香は建仁寺の竹田黙雷老師の許へも熱心に通われ提唱を聴き、相見を許され、教えを受けておられる。また京都八幡の円福寺にもよく通われ見性宗般老師の提唱を聴き、相見を許され教えを受けられた。そして宗般老師から嗣法した山本玄峰老師は、この頃から天香さんと親しくされていて、三島龍澤寺へ入られた後も、幾人もの一燈園同人を受け入れて托鉢(一燈園では先様の求めに応じて奉仕で仕事をさせて頂く修行のことを托鉢という)をさせて下さった。 天香は、自分よりずっとお若い山田無文老師との間も、肝胆相照らし、有無相通じておられるお二人であった。山田無文老師も、一燈園で禅宗の様式を採り入れたものが多くあり、朝晩に小学生も数多く経文を諳んじているのを感心されという。それから十年の間、毎月一回、一燈園を訪れて「維摩経」の講話を続けられた。
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