大隈栄一とは? わかりやすく解説

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大隈栄一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/24 05:34 UTC 版)

大隈栄一

大隈 栄一(おおくま えいいち、1870年9月27日明治3年9月3日[1])- 1950年昭和25年)2月5日[1])は、明治から昭和時代前期の実業家オークマの創業者。

経歴

1870年(明治3年)肥前国神埼郡目達原村(現在の吉野ケ里町)にて、父・小柳与吉、母・しな、の四男の小柳栄一として生まれる[1]。父・与吉は佐賀県神埼郡吉田村の庄屋の家柄であり、農業と木蝋製造および仲買を営んでいた。母・しなは佐賀藩士の娘であった。幼少期は比較的裕福な家庭であったが次第に家業が衰退し、栄一は小学校を4年生で退学することとなる。退学後は父の仕事を手伝いながら、近隣の寺で学問を習うなど、向学心が強かったと伝えられている。

1880年(明治13年)大隈ユキの養子となり大隈栄一を名乗るようになる。

1890年(明治23年)に福岡県巡査の採用試験を受けて合格し、翌1891年(明治24年)警察官となる[2]

1892年(明治25年)に親類の鶴沢政子と結婚する。義父の鶴沢栄吉は元は木工職人であったが様々な機械を考案しており、この頃は佐賀県で乾麺のうどん屋を営んでいた。鶴沢栄吉の発明品の中にはうどんの製麺機があったが、地元神崎の神崎素麺の製造を自動化しようと考えて、より高精度が要求される素麺の製麺機の研究開発に取り組んだ。そして、1894年(明治27)年にそうめんも製麺できる凹凸噛合式剪断機の開発に成功した。

1897年(明治30年)素麺もつくれる凹凸噛合式剪断機の開発に成功した義父の事業を手助けするために、栄一は5年ほど勤めた警察官を退職。佐賀麺機製造合資会社を設立した[3]

1898年(明治31年)佐賀麺機製造合資会社の運営は利益を生み出したが、製麺機の開発者であり義父である鶴沢栄吉と、出資者への利益分配で栄一は板挟みとなる。鶴沢栄吉には工場と生産設備を明け渡し、出資者へは出資額以上の利益配分を行って佐賀麺機製造合資会社を解散させる。栄一は職工1人とともに3台の製麺機を携えて故郷を出た。讃岐では製麺機1台を300円で売却。大阪などにも立ち寄った後、うどんやきしめんなどの製麺業が盛んな名古屋を訪問した。名古屋の製麺業者に対して製麺機の営業を行う過程で、うどんやきしめんの消費量が多い名古屋こそが製麺機製造の適地と確信した。讃岐で製麺機1台を売った300円を元手に、大隈麺機商会を名古屋市内で創業する[1]。設立当初は、掘っ立て小屋同様の工場兼住居に1台の旋盤と1~2台のバイスが全てであった。設立1年目は20台の製麺機を製造販売した[4]

栄一は昼夜問わず研究と製造に没頭し、大隈式製麺機を完成させた。1903年 (明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会で高い 評価を得た大隈式製麺機は注目を浴び、国内のみならず海外への販路も開拓した。

1904年(明治37年)日露戦争開戦により製麺機の販売は落ち込んでしまったが、東京陸軍砲兵工廠からの依頼で小銃の部品や信管を加工する兵器製造用の旋盤やフライス盤を製造して工作機械の分野に参入する。

1907年(明治40年)栄一が率いる大隈麺機商会は、職工20人と三馬力の電動機を1台備えるまでに成長する[5]

1915年(大正4年)陸軍砲兵工廠からの各種兵器製造機械を受注し、翌年1916年(大正5年)には同工廠から特命を受けて装弾機を生産するなど、新製品の開発製造を受けることで技術力を高めていった。

1918年(大正7年)株式会社化し大隈鉄工所(現オークマ)を設立し、代表取締役社長に就任。製麺機のほか工作機械、銃弾製造機などの製造を指揮した[1]

第一次大戦後は不況となり生産台数も落ちたが、この時期に研究に力を入れて組網機や旋盤用テールストックなどを発明、多くの特許を得た[6]

1928年(昭和3年)組網機の製造を開始。1936年(昭和11年)大隈鋳工を設立した。

1937年(昭和12年)には工作機械の生産額で国内1位を獲得するまで会社を導いた。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までは帝国発明協会愛知県支部長も務めた[7]

1942年(昭和17年)旭兵器製造(現旭サナック)を設立して社長に就任した[1]

1950年(昭和25年)2月5日、79歳で死去[8]

人物

  • 大隈栄一は熱烈な支援者を得ており、その支援者が事業に大きく関与することもあった。愛知銀行の渡邉義郎元頭取は、大量生産に応じうる工場設備の拡張を資金面で助けた。工作機械を取扱う商社である岡谷合資会社(現岡谷鋼機)の岡谷惣助も、全面的な支援を惜しまなかった[9]
  • 製麺機の重要な部分である「切刃」は、その作成に高い工作精度が要求される要となる部品である。栄一は当時の外国製の旋盤で「切刃」を作成したが、その刃の噛み合い精度に満足しなかった。そこで既存の旋盤に独自に研究と改良を加えることで、当時としては高精度の旋盤を作ることに成功した。
  • 漢学への造詣が深く、折々で漢詩を詠んでいた。
  • 戦時中は「忠君愛国の至誠」の精神で能率増進、品質向上、原価低減に熱心に 取り組んだ。
  • 栄一の故郷、現在の吉野ケ里町目達原地区にある弁天社の玉垣には、多額の寄付を行った者として「名古屋市 大隈栄一」の名が残っている。

脚注

  1. ^ a b c d e f 上田ほか 2001, 341頁.
  2. ^ 日本人名大辞典+Plus, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “大隈栄一(オオクマ エイイチ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年8月23日閲覧。
  3. ^ 玉置標本 (2016年7月25日). “麺作りから始まった工作機械の歴史”. デイリーポータルZ. 2025年8月23日閲覧。
  4. ^ オークマ創業120年サイト|オークマ株式会社”. www.okuma.co.jp. 2025年8月23日閲覧。
  5. ^ 歴史地理学 | 歴史地理学会”. hist-geo.jp. 2025年8月24日閲覧。
  6. ^ 日本産業機械工業会. 産業機械No822. 
  7. ^ 発明協会について愛知県発明協会
  8. ^ 大隈栄一とは”. コトバンク. 2021年8月7日閲覧。
  9. ^ 大正5年 名古屋 大戦のおかげで重工業が勃興|愛知千年企業-大正時代編”. www.nagoya-rekishi.com. 2025年8月23日閲覧。

参考文献

先代
豊田利三郎
帝国発明協会愛知県支部長(旧愛知発明協会会長)
1937年 - 1941年
次代
上遠野孝



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