大都と海運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 01:03 UTC 版)
永らく華北を支配する政権と江南を支配する政権が分立した中国であったが、やがて華北を支配する金はモンゴル帝国に滅ぼされた。その後、江南を支配する南宋もモンゴル帝国の皇帝直轄政権として成立した元に滅ぼされ、ここに中国はモンゴル帝国皇帝のもと再統一された。 元はモンゴル本国と華北の間を橋渡しする位置にある大都を首都に定めた。大都は長安や汴京よりも北方、しかも黄河よりも北側にあったために、一から漕運網の整備を図らざるを得なかった。江南からの河川利用や海運の導入なども行われたが、一旦は大運河の再建に方針を定め、1292年までには会通河・通恵河などが開かれた。このとき大運河は全長で約1,700kmにも達している。 だが、新しい運河の水量不足から、1290年には元に服属した海賊の朱清・張瑄の案による海運に切り替えられ、1303年には海運が政府直轄事業となった。これによって年200-350万石の輸送が可能となったのである。
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