大聖寺藩、石川県出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/10 05:15 UTC 版)
万延元年(1860年)3月から慶応3年(1867年)1月まで軍中殿役を努め、慶応4年(1868年)1月大砲方となり、7月京都蹴上の藩警固所に詰め、徒目付加人を兼務した。11月養父が病没したため、明治2年(1869年)1月跡目を継ぎ、徒並、15俵となった。2月帰国し、会計局横目、6月軍務局筆生、8月学政重政寮筆生加人、12月雑掌兼藩学校筆生、明治3年(1870年)3月5日文武学校筆生加人となり、10月雑掌兼藩学校筆生に戻った。明治4年(1871年)11月20日大聖寺県が金沢県に併合されると、12月26日藩校も閉鎖され、無職となった。 明治5年(1872年)石川県大聖寺出張所租税掛となった後、1873年(明治6年)区方副戸長、11月江沼郡第19大区長、1874年(明治7年)4月江沼郡第22大区長、明治8年(1875年)鹿島郡第16大区長を歴任し、帰郷して明治9年(1876年)聯合教育会幹事、義倉会幹事等を務めた。
※この「大聖寺藩、石川県出仕」の解説は、「竹内吟秋」の解説の一部です。
「大聖寺藩、石川県出仕」を含む「竹内吟秋」の記事については、「竹内吟秋」の概要を参照ください。
- 大聖寺藩、石川県出仕のページへのリンク