大和絵師・森高雅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 04:41 UTC 版)
ところが、墨僊没後10年に当たる天保5年(1835年)、一門を引き連れて土佐派の土佐光孚の門に移る。高雅・蝦翁の号を用いて、有職故実に学び、復古大和絵の画法を加えた風俗画を得意とした。この行動は、これ以前より大和絵風の作品を手がけていた事から、土佐派の技法を学ぶためではなく、当時浮世絵の社会的位置づけが、土佐派や狩野派などと比べて低かった事が主な原因だと考えられる。玉僊は、当初狩野派や南画を学んでおり、はじめの段階から単に浮世絵師として満足するつもりはなかったのだが、現実の玉僊が評判を得たのは、専ら浮世絵のジャンルであった。光孚に就いたのは、こうした状況を打開し、宮廷御用絵師の系列である土佐派に属することで、画壇での地位や仕事面でプラスになるという計算が働いていたと考えられる。そのためか、この後も浮世絵美人画を描き続けており、完全に大和絵の画風に染まったわけでもない。とは言え、やはり体面的には浮世絵風から距離を置くようになり、こうした姿勢は南画家に転じた同門の沼田月斎と良く似ている。元治元年(1864年)、呉服町一丁目にて74歳で没した。墓所は大津町下の一向宗法光寺。 階級を設け、昇級ごとに礼金を取る合理的で組織的な門人教育を施し、多くの門人がいた。代表的な弟子として日比野白圭、木村金秋、小田切春江、鬼頭道恭、森一鳳、笠亭仙果らがいる。
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