外交方針の転換と今川・北条との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
「武田信玄」の記事における「外交方針の転換と今川・北条との戦い」の解説
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曾・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
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