報道家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:50 UTC 版)
「コンスタンティン・パッツ」の記事における「報道家として」の解説
タリンにて、パッツはヤーン・ポスカの法律事務所の助手として働き始める。しかし、この仕事はパッツを満足させることはできなかった。一方、タルトゥではヤーン・トニッソンが国粋主義的新聞『ポスティメース(英語版)』を1891年、既に創刊していた。そこで、パッツも自らの新聞をタリンで立ち上げようと考えていた。ちょうどその頃、新聞記者のエドゥアルト・ヴィルデとアントン・ハンセン・タムサーレも同じく国粋主義の新聞を創刊しようとしていたが、は社会民主主義的な立場をとるロシア内務省は免許を交付しようとしなかった。そこで3人は協力し、パッツを国教である正教会と深い関係を持つ弁護士として担ぎ上げることで、免許を手に入れることに成功した。 ヴィルデたちや免許を交付した権力者らはパッツに、帝国に忠実であり、かつ正教徒エストニア人の団結を主張する新聞を書くことを期待していた。ところが、パッツは自由主義的な主張を持っていた。新聞『テタージャ』の初版は1901年10月23日発行されたが、程なくして、先んじて発刊していた『ポスティメース』ならびに主筆のトニッソンを相手にエストニアの将来像を巡って論争を繰り広げることになった。国家主義思想を掲げる『ポスティメース』に対して、『テタージャ』は経済活動の重要性を強調した。しかし、厳しい検閲によって、この事業はたちまち困難になっていった。
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