城塞の誕生とニジニ・ノヴゴロド公国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:15 UTC 版)
「ニジニ・ノヴゴロド」の記事における「城塞の誕生とニジニ・ノヴゴロド公国」の解説
1221年に築かれた東部の要塞を起源とする古都であるが、町の本来の名前である「ノヴゴロド」は「新しい町」を意味する。「ニージュニイ」は、ロシア語で「下の」という意味の形容詞で、ロシア北部にある古都ノヴゴロド(ヴェリーキー・ノヴゴロド)など、ロシア中にある同名の町と区別するために付加される。 1220年、モルドヴィン人のオブラム公(Inäzor Obram)の都であった要塞オブラン・オシュ(Obran Osh)がロシア人により攻め落とされ、翌1221年にウラジーミル大公ユーリー2世が要塞跡に木造の要塞を築いた。これが今日のニジニ・ノヴゴロドのクレムリンとなる。ウラジーミル大公国の重要な二大河川、オカ川とヴォルガ川(モルドヴィン語でラヴ Rav またはラヴァ Rava)の合流点に位置するオブラン・オシュ要塞は「下の新しい町」を意味するニジニ・ノヴゴロドと改名された。ニジニ・ノヴゴロドはモルドヴィン人の攻撃に何度もさらされ、1229年1月にはアルザマスのエルジャ・モルドヴィン人君主・プルガス公(Inäzor Purgaz)に攻囲され辛くも守り切った。しかしモンゴルのルーシ侵攻のさなか、ユーリー2世が1238年3月4日に現在のヤロスラヴリ州でモンゴル帝国との間に起こった「シチ川の戦い」で戦死すると、東部辺境の小さな要塞だったニジニ・ノヴゴロドは、プルガスとの戦いの後に再建した生活を守るため、戦わずしてモンゴルに降伏した。こうして難を逃れたニジニ・ノヴゴロドはモンゴルの支配下で辺境の守りとして強化され、その城塞(クレムリン)はヴォルガとオカに挟まれた天然の要害として難攻不落を誇った。 モスクワやトヴェリ同様、ニジニ・ノヴゴロドもその重要性の低さゆえにモンゴルに破壊されずに生き残った、ロシアでも比較的若い町であった。しかし「タタールのくびき」の時代のロシアにおいて、モスクワなどと同様ニジニ・ノヴゴロドも次第に重要な役割を果たすようになる。ジョチ・ウルスの承認の下、ニジニ・ノヴゴロドはウラジーミル・スーズダリ大公国に1264年に併合される。その86年後の1350年、ルーシ有数の有力な公であるスーズダリ大公がゴロジェッツからニジニ・ノヴゴロドに移るとますます重要性は高まった。スーズダリおよびニジニ・ノヴゴロド大公であるドミトリ・コンスタンチノヴィチ(1323年 - 1383年)は首都ニジニ・ノヴゴロドをモスクワに負けないほどの街にしようとし、石造りのクレムリンや聖堂を築き、年代記作家や歴史家たちのパトロンとなった。ロシアの原初年代記の初期の写本・ラヴレンチー写本(Laurentian codex)はこの地の修道士ラヴレンチーが1377年に著している。
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