地歌との一体化、三曲合奏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 05:54 UTC 版)
その後、生田流系の箏曲は箏曲独自の作曲が次第に下火になり、幕末に至るまで、厖大な数の地歌曲にパートとして合奏、参加することで発展していく。地歌の肩を借り、地歌の後を追う形で進んで行ったのである。つまり多くの地歌曲は、箏のパートが作られ合奏されるようになって、箏曲のジャンルともなったことになる。こうして地歌と箏曲の一体化が進んでいった。また、さらに胡弓が合奏に加わるようになり、これら三種の楽器による合奏がよく行なわれるようになった。これを三曲合奏と呼ぶ。後に尺八が加わり、現代では三弦、箏、尺八による三曲合奏が圧倒的に多くなった。江戸時代中期以降、大阪の峰崎勾当、三つ橋勾当らにより器楽部分である手事を重要視した地歌の楽曲形式「手事物」が完成される。それに引き続き京都の松浦検校、石川勾当、菊岡検校らが京都地歌の曲を多数作曲し、それらの曲に八重崎検校らが箏のパートを作曲し、地歌の隆盛とともに複雑な合奏を楽しめる箏曲として発展した。これら京都で作られた曲群を「京もの」「京流手事もの」と呼び、更に光崎検校、吉沢検校、幾山検校らに引き継がれて行く。
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